六三四城的龍馬伝

六三四城的龍馬伝

龍馬鹿児島滞在年表

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坂本龍馬おりょうが鹿児島に残した足跡を年表にまとめてみました。白抜きの部分が鹿児島滞在時の様子になります。
資料によって異なる事が書かれてあり疑問に感じる点も多々あったものの一応形にしてみましたのでご覧下さい。
これだけ言えるのは「龍馬とおりょうは鹿児島に来た!!」という事は紛れも無い事実ですのでご理解のほどお願い申し上げます。

 日付  出来事  訪問地  資料  人物
慶応2年1月22日 薩長同盟成立 [京都]
二本松薩摩藩邸
龍馬は薩摩藩邸で西郷隆盛、小松帯刀、桂小五郎の会談に立ち会い薩長同盟が成立。桂小五郎は同盟成立の翌23日に龍馬に内容確認のための裏書きを求める。龍馬の朱書きで裏書きされた書面は西郷隆盛と大久保利通が目を通した後、桂に返送。(伊東博文に依る)同盟内容は書面を交わしておらずその為の龍馬の裏書き。

龍馬西郷小松
桂

慶応2年1月24日 寺田屋騒動 [京都]
寺田屋
伏見薩摩藩邸
龍馬と三吉慎蔵は未明に伏見奉行所役人の襲撃を受け龍馬はピストルで応戦「敵壱人障子の蔭より進ミ来り、脇指を以て私の右の大指の本をそぎ、左の大指の節を切割、左の人指の本の骨節を切たり。」と負傷。三吉は伏見薩摩藩邸に走り龍馬の危機を救う。 龍馬おりょう三吉
慶応2年1月30日   [京都]
二本松薩摩藩邸
龍馬たちは京都薩摩藩邸に移り西郷の庇護を受ける。 龍馬おりょう三吉
慶応2年2月03日   [京都] 龍馬は印藤聿に寺田屋騒動を報告。 龍馬印藤
慶応2年2月05日   [京都] 龍馬は桂小五郎の求めに応じ薩長同盟条文の手紙に朱の裏書きをする。 龍馬
慶応2年2月06日   [京都] 龍馬は桂小五郎に寺田屋騒動を報告。 龍馬桂
慶応2年2月29日   [京都]
伏見薩摩藩邸
龍馬はおりょう、三吉慎蔵とともに京都から伏見へ下る。龍馬は傷が治癒しておらず移動に駕籠を使う。 龍馬おりょう三吉
慶応2年2月--日 龍馬結婚? [京都]
金蔵寺?
龍馬とおりょうは寺田屋騒動後に中岡慎太郎媒酌で(西郷とも)結婚したとされるが坂本龍馬妻聞文『反魂香』によると元治元年8月1日に京都の金蔵寺において内祝言を挙げたと記述。しかし龍馬はこの時期は神戸に居たようである。 龍馬おりょう中岡
慶応2年3月01日   [京都] 龍馬はおりょう、三吉慎蔵、西郷隆盛、小松帯刀、(中岡慎太郎)らと伏見より大坂に行く。 龍馬おりょう三吉
西郷小松中岡
慶応2年3月04日   [大坂] 龍馬はおりょう、三吉慎蔵、西郷隆盛、小松帯刀、(中岡慎太郎)と薩摩藩船三邦丸に乗船。大坂出港。 龍馬おりょう三吉
西郷小松中岡
慶応2年3月06日   [長州]
下関
龍馬らが乗る三邦丸は下関に寄港。ここで三吉慎蔵、(中岡慎太郎)と別れる。 龍馬おりょう西郷
小松
慶応2年3月08日   [長崎]
晧台寺
龍馬らが乗る三邦丸は長崎に寄港。龍馬はおりょうと晧台寺にある近藤長次郎の墓参りをする。 龍馬おりょう西郷
小松
慶応2年3月10日 鹿児島 [薩摩]
鹿児島
三邦丸は鹿児島に到着。龍馬とおりょうは茶会という宿に宿泊。『維新土佐勤王史』には龍馬は小松帯刀邸に寓し藩士たちの訪問を受けたとあり、一方おりょうの坂本龍馬妻聞文『反魂香』には茶会という宿に泊まった際、龍馬が刺客に襲われそうになったという記述がある。この報を受けた西郷は鹿児島上町に一軒家を2人に持たせ日々警護のものをあたらせた。小松帯刀の家で襲われる事は先ず考えられない故にやはり茶会が宿であったろうと考察される。また、小松帯刀本人は足腰の痛みの療養に栄之尾温泉に湯治に行っており、主人不在時だったというのも根拠となっている。 龍馬おりょう
慶応2年3月16日 日当山  [薩摩]
隼人
龍馬とおりょうは、吉井幸輔と共に鹿児島天保山から船で日当山温泉へ向かう。龍宝宅に宿泊か? 龍馬おりょう吉井
慶応2年3月17日 塩浸温泉 [薩摩]
牧園
龍馬とおりょう、吉井幸輔は塩浸温泉へ到着。日当山温泉から北へ約11Km。塩浸温泉に逗留。その間、和気神社や犬飼滝を訪れた。 龍馬おりょう
慶応2年3月28日 栄之尾温泉
硫黄谷温泉
 
[薩摩]
牧園
龍馬とおりょう、吉井幸輔は栄之尾温泉で療養中の小松帯刀を見舞う。この時、弁当にと小松は2人にカステラを渡す。その後、栄之尾の近くにある硫黄谷温泉に宿泊。 龍馬おりょう吉井
小松
慶応2年3月29日 高千穂登山
霧島神宮
[薩摩]
牧園
龍馬とおりょうは霧島山(高千穂峰)登山をし山頂にて逆鉾を引き抜く。この登山は龍馬ではなくおりょうが望んだと坂本龍馬妻聞文『反魂香』に書かれてある。その日は霧島神社に参拝し宿泊。 龍馬おりょう
慶応2年3月30日 硫黄谷温泉 [薩摩]
牧園
龍馬とおりょうは吉井幸輔の待つ硫黄谷温泉に戻る。 龍馬おりょう
慶応2年4月1日 塩浸温泉 [薩摩]
牧園
龍馬とおりょう、吉井幸輔は塩浸温泉に戻る。 龍馬おりょう吉井
慶応2年4月08日 日当山 [薩摩]
隼人
龍馬とおりょう、吉井幸輔は塩浸温泉に戻る。 龍馬おりょう吉井
慶応2年4月10日 浜之市 [薩摩]
隼人 
龍馬とおりょう、吉井幸輔は船着場のある浜之市に戻る。 龍馬おりょう吉井
慶応2年4月12日 鹿児島 [薩摩]
鹿児島 
龍馬とおりょう、吉井幸輔は船で鹿児島に戻る。  龍馬おりょう吉井
慶応2年4月14日   [薩摩]
鹿児島
龍馬は薩摩藩の開成所を訪れる。 龍馬
慶応2年5月01日   [薩摩]
鹿児島
龍馬は藩船桜島丸が鹿児島に入港した際にワイルウェフ号の遭難を知る。 龍馬 
慶応2年5月02日   [薩摩]
鹿児島
『坂本龍馬手帳摘要』
丙寅五月二日、ワイルウェフ号破船。五島塩屋崎ニ於テ死者十二人。船将黒木小太郎、士官池、蔵太、水夫頭虎吉、熊吉、水夫浅吉、徳次郎、仲次郎、勇蔵、常吉、貞次郎、加蔵〆十二人。生存者三人。下等士官浦田運次郎、水夫一太郎、三平〆三人。
龍馬
慶応2年5月29日   [薩摩]
鹿児島 
龍馬は西郷隆盛、小松帯刀と会談。  龍馬西郷小松
慶応2年6月01日   [薩摩]
鹿児島
龍馬とおりょうは桜島丸に乗船。 龍馬おりょう 
慶応2年6月04日   [薩摩]
鹿児島
龍馬とおりょうは桜島丸にて鹿児島を出港。
『十二月四日付乙女宛龍馬書簡』
六月四日より桜島と言、蒸気船ニて長州へ使を頼まれ、出船ス。此時、妻ハ長崎へ月琴の稽古ニ行きたいとて同船したり。
(一般に出港は6月2日と言われている)
龍馬おりょう
※参考資料 『坂本龍馬手帳摘要』、坂本龍馬妻聞文『反魂香』、『十二月四日付乙女宛龍馬書簡』、『維新土佐勤王史』、『小松帯刀日記』